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「20世紀は人権を無視した時代」

安倍首相が訪米した際に、慰安婦問題に関して「20世紀は人権を無視した時代であり、日本にも責任がある。同情の意と謝罪の念を表明する」と発言しましたが、日本人も非人道的な扱いにあっていましたね。特に、シベリアに抑留された人々、米国で強制収用所に隔離された日系アメリカ人、中国の保安隊に虐殺された朝鮮人を含む日本人居留民と日本軍守備隊(通州事件)、さらには広島と長崎で被爆された人々、東京大空襲で死傷された人々などその例です。全て国際法に違反した行為です。

ネットでシベリア抑留者や日系アメリカ人の体験記、通州事件の凄惨な記録を読むことが出来ます。お勧めです。特に、北京東方で起きた通州事件は、現在最も詳しい近代史年表とされている岩波書店の「近代日本総年表」にも、昭和12年の項に書かれてません。岩波書店の意図が感じられます。盧溝橋事件の3週間後に260名の人々が、人間とは思えぬような方法で惨殺されました。盧溝橋事件のような軍どうしの衝突ではなく、あきらかに国際法違反ですが、シナ事変が日本の一方的な侵略でなかったことを示すためか、戦後ほとんど語られることはありませんでした。国際条約に基づき盧溝橋付近に駐留していた日本軍と国民党軍(シナ)を戦わせようという中共の謀略であったことが、中共政府の機密資料から(さらにその背後にモスクワの意向が働いていたことも、興亜院政務部の「コミンテルンに関する基本資料」からも)明らかになりましたので、もう通州事件は語られても良いと思いますが。

戦前の米国は、白人優先国家であり、世界一人種差別的な国家でした。ウィキペディアの「優生学」には次のように米国の実態が書かれています。
「ドイツと共に、優生学思想を積極的に推し進めた国はアメリカである。優生学に基づく非人道的な政策を採っていた、と来れば、一番に想起されるのはやはりナチスだが、実は、アメリカの方が優生学的な政策を実施していた期間は長い。また、そのような政策を始めたのも、アメリカの方が早い。優生政策の老舗は、アメリカだと理解した方が事実に沿っているのである。断種法は全米30州で制定され、計12000件の断種手術が行われた。また絶対移民制限法(1924年)は、「劣等人種の移民が増大することによるアメリカ社会の血の劣等化を防ぐ」ことを目的として制定された。
この人種差別思想をもつ法は、公民権運動が盛んになった1965年になってやっと改正された。」

大戦開始当時より自国を「自由で平等な民主主義国」と自賛する米国で、長期間しかも無差別の強制収容政策。日系アメリカ人と同じく敵性外国人であるはずのイタリア系およびドイツ系アメリカ人などの白人種諸集団に対しては行われませんでした。黄色人種である日系アメリカ人に対するあからさまな人種差別政策です。汗水たらして働き、やっと自分のものとした財産のほぼ全てを数日のうちに処理し、立ち退かなければならなかった日系アメリカ人。持っていくことを許された荷物は一人あたりスーツケース2個のみ。収容所はほぼ全てが人里離れた荒野や砂漠の中に作られたものでした。昨年、その日系人強制収容所の跡地を史跡として保存する法案が成立しました


日系人強制収容所を史跡に米大統領が保存法案署名
ワシントン共同  2006年12月22日
史跡保存基金などに充てるため、3800万ドル(約44億9000万円)の歳出権限を内務長官に与える内容で、強制収容所跡の保存活動の大きな後押しとなりそうだ。

 保存対象は、カリフォルニア州マンザナーやユタ州トパーズなど計10カ所の跡地。内務長官は、地元の自治体や教育機関、保存活動に従事する団体などに助成金を拠出できるほか、必要な土地の入手なども実施。その他の跡地も長官の判断で追加指定できる。

 日系人強制収容は1942年、当時のルーズベルト大統領の指示で行われ、全米で約12万人が対象となった。




安倍総理訪米と慰安婦問題の行方

元駐タイ大使 岡崎久彦  SannkeiWEB 2007/05/14 06:15

■「南京」など歴史問題含め成果あった

米議会における慰安婦問題審議の成り行きはまだ不明だが、今回の安倍総理訪米の結果、それが日米関係に及ぼす悪影響はほぼ回避できた。

 ここに至るまでの経緯をもう一度振り返ってみたい。まず当初、日米の政策通が一致していたのは、なるべく問題を小さく扱うことであった。決議案はもともと可決されても法的効果はない。議員の選挙区向けのパフォーマンスに過ぎない。騒いでは問題を大きくさせるだけである。

 この戦略は忽(たちま)ちに挫折した。国会で野党が総理に質問すれば総理は答えざるを得ず、ただちに外電がこれを全米に報道したからである。

 アメリカではすべての主要メディアがこれを取り上げた。その間、安倍総理は2つの点を言明し続けた。それは河野談話の謝罪を継承することと狭義の強制連行には証拠がないことである。知的な正直さ(インテグリティー)を曲げない限りこれ以外の発言はあり得なかった。

 ところが、それに対するアメリカの論調は予想を超えた激しさであった。通常、公正客観的であり、日本に好意的なメディアまでが、日本が20万のアジア女性を強制して性奴隷としたというような荒唐無稽(むけい)な話を引用したり、安倍総理の言っていることは、被害を訴える女性たちを売春婦か嘘(うそ)つきだと言うに等しいとか言って、もはや議論を受け付けない状況となった。

 ≪人権問題は時間を超える≫

 この状況は当初、日本では理解できなかった。中国の強力な反日プロパガンダの手が回っているのではないか、という憶測も流れた。しかし、次第に事情が分かってきた。これは全米の有権者の3分の1に近いといわれるエバンジェリカル(福音伝道派)が絶対的に主張する人権問題なのである。強制の有無などは問題ではない。慰安婦制度そのものが悪なのである。そして米国内では新聞を含めて何人もこれに抵抗できない。

 人権問題は過去と現在を区別しない。しかも時代は変わっている。国連平和維持活動(PKO)の兵士たちの買春は処罰の対象となる時代である。PKOの兵士が、相手は強制された女性でないと言っても、他の軍はやっていると言っても何の意味もない。弁解がましいとして印象を悪くするだけである。

 また、河野談話を継承するなどと言っても、アメリカ人は河野談話の何たるかを知らないのだから、逆にどこか逃げの布石を打っているように感じられてしまう。総理自身の言葉で謝ったほうが良い。狭義の強制について質問されれば嘘は言えないが、そもそもそんなことは問題の中心ではない。言ってもその直後に、慰安婦制度を持ったことは女性の尊厳を傷つける人権無視の行動として謝罪すればそれで良いのである。

 ≪問題の黒白でなく常識で≫

 特に良かったのは「20世紀は人権を無視した時代であり、日本にも責任がある。同情の意と謝罪の念を表明する」という総理発言である。

 戦争の悪一般を論じ、ドイツの責任も認めつつも、ドイツ人も犠牲者だったと言っているワイツゼッカー発言を彷彿(ほうふつ)とさせる含蓄がある。また、日本では気づかないが、これを聞いた米国人は1960年代の公民権運動前の黒人に対する人権侵害を想起して粛然とするという。

 アメリカの政府も議会指導者も日本の釈明を受けいれた。議会の決議案審議の結果如何に関わらず、この問題は今後の日米問題から遠ざかっていっている。南京事件70周年を迎え、今後も歴史問題で曲折がありそうなこの年において大きな意味のある訪米の成果であったと思う。

 今でもなお、謝罪は旧日本軍、ひいては国家としての日本の名誉を傷つけるものとして釈然としない人々は、強制の有無を問題にして事実を徹底調査して問題の黒白を付けることを主張している。

 私はそれは無用のことと思う。常識で考えれば良いことだからである。

 すべて需要と供給の原則による。供給のほうが大きければそもそも強制の必要は生まれない。また、供給は報酬の関数であり、十分な報酬によって供給は確保された。この点の資料さえしっかりしていれば良いのである。敗戦で無に帰したケースもあろうが、無事に帰ればそれぞれ自前の店を持つぐらいの資産を貯められた。戦場だから例外的なケースはあったろうが、それは日本軍刑法違反で処罰されるべき行為であった。

 その上でも、慰安婦制度が女性の尊厳を傷つける人権違反の行為であったことに謝罪するのが正しいというのが昨今の道徳的基準である。(おかざき ひさひこ)

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コメント

人権問題に関しては、日本も最大の被害者です。
戦後60年以上~アメリカから謝罪はありません。
勿論、ロシアも同じです。
結局、国際法と言っても戦勝国の決め事。
それに対して日本も主張すらしていないのですから。
現在、日本もそうですが、欧米、中東、アフリカ諸国と
人権問題が複雑化し、解決の糸口すら見つからない。
北朝鮮の崩壊、韓国も崩壊寸前、そして中国も崩壊、
戦略的な見直しが必要ですね。

投稿: kju96 | 2007年5月31日 (木) 23時52分

ミーシャサンの議題は、今後の各国の方向にも大事なと思います。
そして、長いコメントを、この場をお借りし、申し訳ございません。
※尼港事件(にこうじけん)は、シベリア出兵中の1920年(大正9)3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率いる露中共産パルチザン(遊撃隊)によって黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港)の大日本帝国陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)及び日本人居留民が虐殺された事件。
日本海賊史に名高い剣客「江連力一郎」の大輝丸事件は尼港事件を発端とする。
【この事件による日本人犠牲者は約700名に上り、その半数は民間人であったため、国内世論は憤激の声が渦巻き、反共機運が強まった日本陸軍がシベリア出兵を延長したのは、この事件によるものという意見もある。過激派軍は、赤軍系パルチザンと韓人教師朴エルリアが組織した「サハリン部隊」とが連合したものであった。 (佐々木春隆著「韓国独立運動の研究」国書刊行会P461) 】
※南京事件(なんきんじけん)1927年3月24日午前7時24分事件は起きた。その時、北伐軍の南京突入が不可避と判断されたため、居留民約百十名程度が前庭に集合していた。また揚子江を哨戒中(当時揚子江は国際水路)の駆逐艦から10名の水兵(荒木大尉指揮)が領事の要請により警備についていた。その頃、北伐軍は揚子江上の艦船を無差別に射撃、ハルクという日本の船会社(日清汽船)の傭船に乗り合わせた海軍の水兵(駆逐艦桃乗り組みの後藤1等機関兵)が殺された。
そして北伐軍の将校を含む40名が武器の隠匿を調査するとして領事館に乱入した。
木村領事館警察署長は中庭に出たところを銃撃され左腕に貫通銃創を負った。更に駐在武官の根本博少佐(のち北支派遣軍司令官、戦後台湾にわたり国府軍顧問)は素手で北伐軍暴兵に立ち向かったが銃剣で刺され、逃げるところを二階から転落重傷を負った。
8時になると暴兵に加え南京の一般市民も加わり、領事館本館の物品は根こそぎ持ち去られる状態となった。(中略)
午後4時。英米艦艇は市街に艦砲射撃を加えた。南京にあった日本人の居住する家屋も残らず略奪された。当時南京には500人を越す日本人がいたと推定される。そして森岡の妻など館員家族が強姦されたとの噂も根強く残った。
翌朝、砲艦艦長吉田中佐が決死隊を率いて来館、全員艦に避難した。艦は上海に向かったが、荒木は途中自殺を計った。
※済南事件(さいなんじけん)1926年(昭和3)5月3日、中国山東省の済南で、日本の権益確保と日本人居留民保護のため派遣された日本軍(第二次山東出兵)と北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。
事件の中で、日本人居留民12名が殺害され、日本側の「膺懲」気運が高まった。一方、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。
衝突はいったん収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。日本軍は攻撃を開始、5月11日、済南を占領した。
※通州事件(つうしゅうじけん)盧溝橋事件から僅か三週間のち、即ち昭和12(1937)年7月29日に、北平(現在の北京市)の東約12kmにあった通県(北京の東方に位置する通州、現在の北京市通州区北部)の中心都市にて、済南事件を上回る日本人居留民虐殺事件が発生した。これは通州事件と呼ばれている。
当時、通州には、日本人を妻とする「殷汝耕」が長官の親日政権である「冀東防共自治政府」が設立され、千数百名の本隊と付近からかき集められた雑兵を含めると総数9千人余りの保安隊を擁していた。日本側はこの冀東保安隊を信頼していたため、自身の兵力はほとんど配置していなかった。
反日派の張慶餘と張硯田ら中国軍と通州の保安隊は、すぐさま国民党に寝返り、突如日本軍を襲撃したのである。彼等は日本側の兵力が手薄なことを利用し、小銃や機関銃を乱射しながら日本人居留地に突入し、日本人(当時、日本統治下だった朝鮮出身者を含む。)385名のうち、幼児12名を含む223名が虐殺された。多数の女性は強姦された。
【事件の原因は、日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎をも誤爆したことの報復であるとする説明が一般的だったが、「通州の虐殺が中国側の謀略だった証明ははからずも最近中国で出版された『盧溝橋事変風雲編』という書物にあり、そのなかには、張慶餘と張硯田と宋哲元との間に盧溝橋事件以前から密約が存在していた事実が書かれている。しかも張慶餘と宋哲元とを結びつけたのは哥老会であった」(岡野篤夫「通州事件の真相」より抜粋、『正論』平成二年六月号)】
殺され方が極めて残虐であったとされ、日本の対中感情は大きく悪化した。 その後1937年12月24日、冀東政府と日本側との間で交渉が成立、冀東政府は日本側に正式陳謝の上、120万円の賠償金を支払い、事件は解決した。
この事実は、東京裁判で弁護側から提出された証拠に記録されている。だが、この事件に関する証拠は却下された。なぜなら、中国人の暴挙の事実が明らかになると、連合国側の不利になると判断されたためである。
また、近年では、この事件に対する報道は日中両国で皆無であり、歴史の闇に埋もれようとしている。

戦場の興奮に基づかない、理念に基づく殺人行為、大量虐殺となると、おそらく毛沢東、スターリンの粛清の右に出るものはないであろう。
しかし、彼等も元は我々と同じ普通の人間に過ぎないのである。
最近は中国共産党が自らの誤った歴史を控えめに自認する方向に向かっているらしいのですが、中国側の主張については、犠牲者の数を増やしていった経過、大屠殺記念館と云う名前や間違った写真の掲示、時代に応じて、この件を利用している様な事は、返って真相を疑わしくするもので、真実の解明を目的にするならば、冷静な討論や検証から(両国と信頼出来る公文書等の提示)大局的な正しい、歴史を探っても貰いたいものである。

戦勝国のアメリカでの戦争犯罪・虐殺についても、いちども裁かれ処刑された者はいない。アメリカが行った原子爆弾投下以外の日本人への虐殺について、ある有名なアメリカ人の日記を紹介する。ただしこの引用は、アメリカの戦争犯罪を掘り起こして補償を云々するためのものではないし、勿論、南京で大虐殺がありそれを相殺させるために紹介するのでもない。
<「リンドバーグ日記」>(「リンドバーグの衝撃証言」『正論』五月号 より引用)
六月二十一日 水曜日  日本兵士殺害に関する将軍の話
・・帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。軍曹は敵の地域内に進入する偵察任務に誘われた。軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。・・・「しかし、俺はあいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ」「ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」
偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に日本兵の頭部に腕が巻き付き、喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった。
(以上、他方の資料を抜粋し、参考と致しました)
戦争に向かった状況は、それぞれの正義と信じたい事があったのであろう。
また、虐殺等の非道な行為も、戦った国々、双方にもあると考えられます。
平和な時代の私達が、その状況に陥った場合、正しい判断が果して出来るのでしょうか。
戦争行為に正邪はなく、また、犠牲者数の優劣での裁きでもなく、そこには壮絶な狂気しか存在しない事を自覚すべきである。
肝心なのは、以上の様な事が、全て人が人にしてきた事であり、戦争と云う狂気な時代の極限状態の行為を、本当は裁ききれない事、そんな悲しい覚悟で戦争をするのが、真実であり、多くの犠牲者は、その事を我々子孫に伝えたかったのでは、ないのでしょうか。

投稿: SUKIPIO | 2007年6月 1日 (金) 12時03分

kju96さん、コメントありがとうございます。
戦勝国の決め事以上に、厄介な問題が日本を苦しめてきました。アジアに築かれた反日ネットワークです。これはもう、社会病理現象ですね。思想家としての共産主義、社会主義に、若い人たちだけでなく知識人も共鳴した時代、それが占領時代から昭和37年にかけてでしたね。教育界もマスメディアも彼らの手中に落ちました。この事態を憂慮した経済人たちが昭和30年代末期に「オーソドックスな良識派のジャーナリズムを残そう」と支援・再建へと動き、水野成夫さんと鹿内信隆さんに経営を委ねたのがサンケイ新聞(現産経新聞)でした。マスメディアがもっと中立的になればバランスがとれて良いのですが。

投稿: ミーシャ | 2007年6月 2日 (土) 21時27分

SUKIPIOさん、コメントありがとうございます。
詳しい解説に感動してます。
通州事件は第二の尼港事件とも言われますね。通州事件もあまりにも酷くて読むに耐えませんでした。1986年の反乱の首謀者だった張慶餘の回想記公表以来、通州の防備が空白となった機会をとらえて反乱に踏み切った、という説明が有力になっているようですね。
南京事件と呼ばれるものは一つではないですね。当時の南京には、日本だけでなく欧米列強国の領事館が存在しました。当然ですが、中国の排外運動は苛烈でしたし、中国は袁世凱死去により軍閥同士の内乱状態(無政府状態)。しかし、満州事変すら起きてない頃で、日本軍のの影響力は南京において皆無でした。ワシントン条約以降、日本人の間でも欧米列強に対する反感は強く、幣原外相が中国に対して宥和政策を採っていたんですが、そんな中、広東軍閥の蒋介石率いる北伐軍が南京へ進軍してきました。居留民の安全を憂えた英米が日本も共同介入に加わるよう要請しますが、幣原外相は、これを拒絶・・・北伐軍に、軍閥とは無関係の外国領事館が攻撃を受けるということなど、想像もされていなかったんですね。「中国と全面戦争になれば、中国の拠点を全て制圧するのにどれだけかかるか分からない。中国に大きな利害関係がある日本は協力できない」という趣旨の回答を行いました。が、このときに被害を受けたなかった領事館はドイツとソ連のみだったようですね。揚子江を通過中だった船舶が、北伐軍の攻撃を受けますが、日本だけでなく、英米にも死者が発生していました。暴行略奪は、最初北伐軍の兵士によって始まりましたが、中国人市民たちも大勢加わってますね。この国際法に違反する行為に対して幣原外相は、対中国との外交を有利に進めるためか被害の実態を隠蔽しました。蒋介石への追求も避けました。一方、中国軍閥と衝突が激しかったイギリスは、北伐軍と共謀しているコミンテルンの親玉であるソ連との国交を断絶しています。
袁世凱の中華民国臨時政府の将軍であった張勲は、革命軍を追撃して南京に進軍。この時も日本の商店は、中立の証として日章旗を掲げていましたが、一ヶ月余りに渡って襲撃され、日本人10数名が死亡。しかし、当時の日本外務省の官僚たちは中国を連携の対象と考えており、欧米と対抗するために友好関係を築くことを目指していたと推察する以外、理解に苦しむ対応をしてますね。日本国民の中国への反感とはかなりかけ離れてますね。牧野外相の「欧米の有色人種に対する差別」観が、中国に対してお人好し外交につながったと思います。
田中内閣は第二次・第三次山東出兵を行いますが、文民統制による不拡大方針が徹底され、あくまで在留邦人の保護を目的としたもので、国際社会からの非難もほとんどありませんでした。しかし、この最中にも、蒋介石の北伐軍による日本人被害は済南事件という形で発生します。その蒋介石が南京国民政府を樹立。済南事件では日本軍が圧勝しましたが、北伐が終了し、日本軍が撤兵。その蒋介石に信用が持てなかったのが関東軍ですね。関東軍は張作霖を爆殺。当時のアメリカの国務長官であるケロッグは、一連の中国の粗暴な振る舞いを「この事件は共産主義でも軍国主義でも、まして革命でもない、これは昔からの中国である」といった内容の報告を議会に行っています。日本は結果的に、中国の無法を許した「無抵抗政策」への失望が、反動的に軍部の独断専横を招いたとも言えます。

こうして歴史的事実を追ってみると、どこの国が悪いかとか良いかとかではなく、何があったかを詳しく検証して見ることが大事だと思います。善悪で片付けられる問題ではないこと。そもそも、歴史に善悪を持ち込むことに疑問を持ちます。善悪とは、今生きている人間の感覚です。今の感覚ではとても非人道的なことに思えても、当時の歴史的情勢から考えればそれは合理的な選択であったかもしれません。常に、事実を客観的に見なければならないと思います。重要なのは、どんな歴史的経緯がこの時代に存在したかでしょう。表面的な事実から歴史を理解してしまうことは、私の目を曇らせてしまうことと思います。
SUKIPIOさんのコメントと私のレスは、同じ地点に到達したようですね。貴重な資料提供とご意見、ありがとうございます。

投稿: ミーシャ | 2007年6月 3日 (日) 03時29分

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